礼拝
友納 靖史
常盤台バプテスト教会 2021.11.7 主日礼拝 悲嘆から希望の民へ⑯「命と死の分かれ道」友納 靖史 牧師【エレミヤ書 21章8~10節 / 22章1~4節】(新共同訳 旧 P.1215-6)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 民数記6章22~27節 司式者
祈祷 司式者
賛美 124番 この世はみな 1、3節
聖書 エレミヤ書21章8~10節、22章1~4節
主の晩餐を覚えての黙想 "ひとつの聖霊"
宣教 悲嘆から希望の民へ⑯「命と死の分かれ道」牧師 友納靖史
祈祷
賛美 585番 救いのぬし主よ 1、2、4節
献金感謝 司式者
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 預言者エレミヤの語る神の言葉に耳を傾けず、無視し続けた南ユダのゼデキヤ王が、遂にエレミヤの元に使者を送り、神への執り成しを願います。なぜならエレミヤの預言した通り、バビロン王ネブカドネザルの脅威が迫っていたからです。その時、主が語られたのは「見よ、わたしはお前たちの前に、命の道と死の道を置く(21:8)」、そのいずれかを選ぶようにと。実はゼデキヤ王や民らが主に求めたのは、自分たちが願うように王国もエルサレムも破壊されず、驚くべき御業 (神の奇跡)が起きて、恐るべき神の計画が変えられることでした。しかし神は「この都を出て包囲しているカルデア人に降伏する」なら、彼らの命は救う道に通じると告げます。悲しいかなゼデキヤ王とその民らは神に従うことなく、その後バビロンによって滅亡へ向かいました(38:17)。その一方、神に従った少数の人々は命を長らえ、捕囚から解放される日に彼らの子らは国土を再建する希望を得たのです(29:11)。「命の道」とは、自分の願望や感情と闘い、主なる神の御心に従うことを選び取る困難を伴う道ですが、それは、救いと祝福に至る道です。後に主イエスは「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない(マタイ7:13-14)」と語られました。
父イサクより受ける長子の祝福を兄エソウより奪い取り、家から逃亡したヤコブ。時を経て遂に兄と対面し、積年の課題を解決しなければならない日がやってきました。その時ヤコブは、兄より復讐され、自分と家族の命と財産を奪われるのではとの恐れと不安に苛まれます。兄と対決する前日、ヤボクの渡しを渡り、川岸に一人留まったヤコブは何者かと夜明けまで格闘し(相撲を取り)ます(創世32:23-32)。その時ヤコブは、その方が「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」と言っても、「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」と応えます。これは、兄に会わずに逃げ出してしまいたい彼の感情と、一方でそれを乗り越え、兄に謝罪し和解することが神の計画だと分かっている彼の信仰との狭間で、葛藤する魂の叫びでした。ヤコブが父の祝福を兄よりだまし取った過去を悔い改め、苦しいけれど、神の願う「命の道」を選び取り、真に神からの祝福を得たいと願っていたからです。そしてヤコブは彼自身に勝利しました。
ゼデキヤ王と民の多くが神の願う道を選ばないことに対し、主なる神は「わたしは、(神の)顔をこの都に向けて災いをくだし、幸いを与えない(21:10)」と語られました。神が「顔を向ける」とは、神の恵みと平安が与えられる祝福のしるしです(民数6:24-27)。しかし残念ながら王も民も、神が救いの道を示しても、自分の願いと異なるなら従わない、との頑なな心と不信仰により、死の道を選ぶことになりました。一方、「神<の御心>と人<自分の感情>と闘って勝った」ヤコブは、何者か(主の使い?主御自身?)から、「お前の名はイスラエルと呼ばれる」と新生の宣言と真の祝福を受ける者とされたと証しされます。この時ヤコブは「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている(創32:31)」と喜び、感謝をこめてその場所をペヌエル(神の顔)と名付けました。
私たちも日々、神の言葉より自らの願いを優先したいとの弱さと罪と闘って過ごしている者ではないでしょうか。ヤコブのように「祝福される<主の御心に従う者へ変えられる>まで諦めません」と忍耐強い主なる神と祈りつつ格闘し、時を待ち、勝利する人生を送りましょう。真の霊的成長と成熟とは、神の示される「命の道」を選ぶことですから。
「わたし(イエス)は道、真理、命である。わたしを
通らなければだれも父のもとに
行けない(ヨハネ14:6)」。